神武天皇即位年について その3

1 :日本@名無史さん:2015/09/06(日) 07:51:20.60 .net
日本書紀編纂時の原理は紀元前660年です
これが当時の編纂者の認識です

前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1416634759/

2 :日本@名無史さん:2015/09/06(日) 08:56:13.30

立て乙

3 :日本@名無史さん:2015/09/06(日) 21:20:11.09

スレたてたとたんに書き込みが途絶えたけど、生きてる?

新スレ自体も即死チェックみたいなのがあったよね?

4 :743:2015/09/07(月) 00:04:49.48

スレ立てお疲れ様です

神武天皇〜欠史八代の天皇の実在性が認め難いのは陵墓の存在の不確実性と系譜の不確かさだと思いますが、
開化天皇より前は古墳時代では無く、可視的な陵を見いだせない為だと思います。
神武天皇の岳父である事代主と関係性の深い鴨都波1号墳は弥生時代の方形周溝墓から古墳時代前期の方墳に至る墓域でした。
その墓域は地中深く埋没いていた事などから、可視的に見いだせない、或いは現天皇陵とされた中に存在するのかも知れません。
神武天皇・綏靖天皇・安寧天皇に后妃を入れたのが葛城の事代主でありながら、4代懿徳天皇までの陵墓が畝傍山周辺にある事など、日本書紀に現れない要因があるのかも(欠史八代ですが)。

また、系譜においても初代神武天皇〜13代成務天皇までの父子継承となっている点ですが、
16代仁徳天皇から系譜が正確性をを帯びてくる点などから、天皇の名はわかっていたが系譜に関する伝承が失われていた為、父子継承としたのではと考えていますが。

特に仁徳天皇以降においては、天皇空位の期間が頻発しますが、古代に行く程、天皇崩御すぐに即位の傾向となります。
例外は神武天皇崩御後に綏靖天皇が異母兄のタギシミミを討った説話くらいでしょうか。

また推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇。元正天皇など女帝による中継ぎとしての即位は飯豊皇女、神功皇后にもあてはまりそうで、
卑弥呼、トヨも倭国の乱に伴う中継ぎの即位だった可能性もあると思います。

5 :日本@名無史さん:2015/09/07(月) 16:12:36.37

欠史八代説に囚われすぎなんだと思いますね。
戦中に一学者が唱えた説というだけなのに、弾圧されたことにより戦後に
ヒーローにされてしまい、あたかも真実のように扱われ、国家神道と逆の意味で
バイブルになってしまった。誰も異を唱えることが出来ず、触れることも出来ず、
まともな学者は避けて通り、信奉者は欠史八代を呪文のように唱える。
国家神道も罪なことをしてくれたもんだと思いますけどね。

神武と崇神が同一人物では無理があると思います。
ある日突然小数でやって来た人物が巨大な墓を作るほどの力を持っていることになる。
大彦も彦坐王も狭穂彦も架空の人物ということになる。武内宿禰も。

100%信じるというのではないが、婚姻関係や出てくる氏族は伝承を書いている
と思えますね。
欠史八代ではないほうが、発掘調査と整合が取れる。
尾張の祖の伝承、尾張の土器、丹後の遺跡。
黒田を発掘すれば、三世紀初期の豪族館が見つかるかもしれない。

6 :日本@名無史さん:2015/09/07(月) 20:08:03.65

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

7 :日本@名無史さん:2015/09/07(月) 20:08:33.34

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

8 :743:2015/09/08(火) 00:22:36.04

何度か述べましたが中国史書に現れる日本列島の状況が後漢〜隋・唐に至るまで、倭国と言うただ一つの国が有り、ヤマトに都を置いていると述べている。
これは日本書紀の内容と同一としか読めないのでは?

後漢書・三国志に現れる百余国と東テイ人の二十余国を合わせた120余国は倭王武の上表文に現れる征した121国や隋書の軍尼120国と対応していると思います。
倭人伝の30国は何度か述べたように倭国の乱の後に邪馬台国によって統合された領域で、時期として四道将軍派遣前の状況だと思います。
倭国の乱の前には百余国の統合があったのではと(統合自体は後世より緩やかな状態だと思いますが)。

東テイ人は会稽海外の存在から、九州熊襲即ち狗奴国に該当すると思います。

9 :日本@名無史さん:2015/09/08(火) 19:36:24.74

継体以前の天皇を半年暦説にすると紀元前51年頃
面白い事に新羅は高墟村の徐那伐が紀元前57年頃に建国
神日本磐余彦尊(神武天皇)の兄稲氷命は母の国である海原へ入坐としたとのみ記されている。
母の国(ワタツミ)は福岡志賀島一帯を本拠地とする海洋民族。新羅辺りも抑えていたのではないかなぁ。
半年暦説だといろいろ繋がるかもなぁ・・・ト学ですまん。

10 :日本@名無史さん:2015/09/08(火) 23:23:18.84

>>9
半年暦(って、「二倍歴」とか言ってなかったか?)はデタラメで荒唐無稽。無意味な推計だ。

11 :日本@名無史さん:2015/09/08(火) 23:29:55.15

神武天皇は新羅系と海洋民(南方系?)の混血なのでは?
天孫降臨とはやっぱりご先祖が大陸からこの国に来ました
ってことだと思うけど。神話の舞台は南九州の日向。
ニニギの子孫は九州一帯を支配した大豪族だったのだろうか?
むしろ朝鮮から日向まで定住地を求めてさまよったのでは?
先祖は海幸彦でなく山幸彦。狩りをして肉を食べていた人たち。
日本書紀の異伝では出雲のスサノオは新羅から来たとある。
日本から朝鮮に進出したのは神功皇后の時代からとされる。
その前に崇神天皇のとき出雲国が大和朝廷に降った後、
任那が朝貢してきたという。だからそれまで朝鮮南部を
抑えていたのは日向の豪族でなく出雲の豪族と考えるのが自然でしょう。

12 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 00:00:44.93

神武天皇はアマテラスとタカミムスビという異なる
二系統の神を先祖に持っていてどちらが皇祖なのか
が長いこと議論されてきたね。

13 :743:2015/09/09(水) 00:55:10.10

記録に現れる事を中心に述べていますが、後漢書においては倭人(倭国)と中国との接触は前漢の武帝が朝鮮を征した時に始まるとなっています。
対して百済・新羅が史上に現れるのは4世紀中頃、500年近い開きが有り、日本の始祖に百済・新羅を考えるのは無理があると思います。

むしろ新羅の古い王が広域丹波に該当しそうなタバナ国から渡来したとする三国史記の記述や但馬に渡来した新羅王子アマノヒボコが純倭風の名を持つ事から辰韓に植民した倭人集団が新羅の始祖ではと考えています。
日本書紀においても朝鮮半島も城に韓人のモノにはサシを、倭人のモノにはキの音を当て区別している事から新羅はシラ城であり、倭人によって作られた事を物語っているのでは。

三国志で辰韓の地は亡命中国人が多く居る地とされている点も踏まえ、中国人・倭人・韓人の混交」の地だったのでは?
新羅は5世紀の宋書においても独立の伝は立てられず、倭国伝の中で配下として登場するのみで、辰韓も登場する事から辰韓地域の征服も終わってない状況と考えられます。
新羅が独立した国と考えられるのは6世紀になってからでしょう。

三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
6世紀中頃に新羅が任那を征したのでしょうが、日本書紀による限り7世紀に至るも任那の貢がなされているように完全な新羅の征服は半島統一の直前にまで掛かったのではと考えられます。

14 :743:2015/09/09(水) 01:18:47.09

百済においては、その姓扶余、高句麗の分かれとなっています。
思うに西晋滅亡時、連絡の途絶えた帯方郡地域に派遣された高句麗王族が独立したのでは?

その頃に馬韓地域の倭人集団の後援を受け、高句麗から独立したのでは?
時期的にも神功皇后の三韓征伐の時期にも当たっており、七支刀の年代にも合致しそうです。
その直接、372年に百済が高句麗を破った事にも対応しそうです。

日本書紀において、朝鮮半島の韓人の村にはスキ、倭人の村には牟羅の音を当て区別している事などから雑居状態が伺えます。
百済の官人には韓人・倭人さらに中国人が居る記述もあります。
朝鮮半島の前方後円墳が5〜6世紀に馬韓に築かれている事から倭人地域が推定出来るかと思います。

15 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 02:57:37.70

日本書紀が「新羅」と呼んでるのは後世新羅と呼ばれる
地理上の場所、地名ですよ。スサノオが出雲にやってきたとき
アマノヒボコが但馬にやってきたときの「新羅」は当時は
後に新羅と呼ばれる国に包含される集落(ムラかクニという言葉が
妥当かな?)の一つに過ぎなかったと思います。
垂仁天皇が西暦3世紀後期か4世紀前半の人物なのは確かでしょう。
しかし垂仁がアマノヒボコの渡来からその曽孫か玄孫のタジマモリの時代まで
生きるということはまず無理ですから、アマノヒボコは垂仁の何世代か
前の天皇の時代に既に渡来していたはずです。
当然この時代に新羅国は史上に現れていませんが、
新羅へと発展する国は既に存在したのでしょう。倭人の国かもしれませんが。
新羅の伝承上の建国は紀元前57年。日本書紀はおそらく垂仁天皇の治世を
この直後に合わせたのではないですか?

16 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 08:51:12.73

神武って分からんねえ。
天孫降臨ならニニギーアメノホアカリで充分なんだよな。
九州に降臨して海神と婚姻し、母も祖母もワニとくる。
アメノホアカリの子孫も海部で海神なんだよな。

元々あった伝承があるが、それでは中国風の支配者の体をなさないから
くっつけたのか、何時だかわからないほど古い時代から統治していますだと
野蛮人扱いだったのか。

17 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 16:35:27.42

>>13
>三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
新羅の王、丹波出身の脱解尼師今の昔氏の血統は日本
韓国で朴と勝手につけられた赫居世居西干の血統も繋がりを考えると日本
味鄒尼師今からの金氏は古韓国系では。

18 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 19:12:25.23

神武天皇(この時代、天皇号はなくて精々、大王。同じ意味では大国主尊。また、天照皇大神)は後世のイメージ。
神倭磐余彦天皇。
複数の一書に曰く。として、、、
神倭磐余彦ホホデミの命。
要するに、ホホデミの命と言われた。

彦火明命/天火明命の亦名が天火火出見命。
家名として当主がホホデミを継承しても不思議ではありませんから、
お伽噺の神武天皇と同時代の登場人物を検証すると実体が朧気ながら見えてくる?

九州からヤマトへ御来臨の伝承が複数。

神武天皇は亦、狭野命(サノの命)と言った。

素(もと。始祖)のサノの命(王、男(オノコ))。、、、スサノオ

19 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 20:04:01.57

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

22 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 20:51:08.75

諱も幼名も即位名も全部一緒くたにするとか、流石2ch

21 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 20:46:23.51

天之忍穂耳の父親はスサノオ

20 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 20:04:37.54

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

23 :日本@名無史さん:2015/09/09(水) 21:48:22.86

>>17
新羅の金氏の出自が記録とは無関係で実は金官国の王族、併合時に占領支配したんじゃなく政略結婚で統合した

みたいな経緯でもあったら面白いのにな。

24 :743:2015/09/12(土) 00:41:48.78

大和と出雲に弥生時代前期に至る交流がある事は大和の最も古い神社に祀られる神が出雲の神と何度か述べました。
葛城で弥生時代前期からの鴨都波遺跡に存在する鴨都波神社、銅鐸を出土した名柄神社、高鴨神社。
三輪の大神神社等。事代主や大物主神を祭神とする大和南部は出雲の文化圏だったのでは?

倭人伝の魏使の経路でも述べましたが出雲〜丹波〜播磨〜大和が弥生以来のルートではなかったかと。
出雲〜筑紫さらに新羅に至るコースが相当古くから存在したのではないかと。

25 :743:2015/09/12(土) 01:13:29.78

古代の日本海ルートがひょっとして呉越の民の渡来に至る鳥越憲三郎の説に繋がる可能性もあるかもしれません。
神武天皇以来、天皇家と出雲系とは事代主の例の如く婚姻を通じて友好的で、おそらく播磨〜大和への移動は大和川を移動手段としているのでは?

対して、奈良市域は神武東征時の長髄彦や皇族でもタケハニヤスヒコ等天皇家と対立関係になる事が多かったのでは?
四道将軍の大彦命が北陸へ向かう時、ワニ坂を経由している事など上ツ道を経て、淀川・宇治川水系は東国・北陸との親和性が高かったのでは?
それが後に佐紀古墳群の王家に繋がっていくのでは?
あるいは広域丹波の中でも但馬は大和川水系の天皇家、丹後は佐紀の王家との繋がりが多くなるのかもしれません。
垂仁天皇の2人目の皇后ヒバスヒメからも。

26 :743:2015/09/12(土) 01:38:57.13

何度か述べているように中国史書に日本列島が登場して以来、倭人・倭国以外登場しない。
弥生時代前期より、緩やかな統合があったのではと考えています。
やはり、最初は出雲であったと。日本人の均質性が象徴していると思いますが。

そして神武天皇の統一も緩やかなな統合だったのではと。
強力な統合が行われたのは倭国の乱を経た邪馬台国からではないかと。
倭人伝に現れる官・副は邪馬台国から派遣された官僚で、邪馬台国時代は簡単な官僚機構が整備された国家だったのではと考えています。

27 :日本@名無史さん:2015/09/12(土) 07:22:16.01

>>17
金氏も倭人系だよ

>>23
金官国との関係は6世紀になって婚姻関係を結んだのが最初
金氏という姓を名乗ったのもその頃
そもそも5世紀以前の新羅王家は金氏と名乗ってないし金官国とも関係ない

28 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 07:02:21.09

天皇家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をなされていました
我が家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をしていました
世の中なんてそんなモン

29 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 08:54:39.37

20万年(25万年?)前に西アフリカで分化発生したのが我々のホモサピエンス類

食糧事情からその総人口は約2万人程度で推移。

五万年前、急激な環境変化による寒冷化(東南アジア(インドネシア)で超メガ火山噴火による噴煙物質が太陽光を遮る『噴火の冬』だとされる)に遭遇。
急激に食糧事情が悪化して飢饉〜絶滅へのカウトダウンが始まる中、
生き残る為、発生分化以来の故郷を捨て
新天地を探すグレートジャーニーへと旅立つ一団があったそうです。
(出アフリカ)
この時の一団の人数は僅か数十人だった?

現在の70億人の人類は種としては『ホモサピエンス種のみの単種 』
過去に地球上に様々存在した別種類の人類は自然淘汰やご先祖様に駆逐される等して
全て絶滅。

70億人になんなんとするホモサピエンス種ですが、近年、世界的な遺伝子の科学的な解析から
5万年前のたった『9人の母親』に集約される。と言う結果が出ています。
正に、出アフリカの一団に至ると考えられる結果?

30 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 11:11:13.34

出アフリカは複数回の説が主流だろ、2回説>3回>1回って感じじゃなかった?

31 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 11:40:21.33

>>29
黒人の扱いどうするの?

32 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 20:10:52.56

ヤマト朝廷というか、ヤマト王権でもいいが、
出雲と結びつける考え方が、出雲神話に引っ張られすぎではないか。
近年の荒神山遺跡の発掘とか新たな知見はあっても、
出雲神話は「極論」すれば机上の理念的産物というのは変わらない。
三輪の神と大物主との結びつきの話とかは、神話的なものを取っ払ってしまえば、
ほとんどまったく関係がない。
近辺に出雲に関連した地名が残っているとかというのも、
強引に関連づけようとしたいわば牽強付会説。
邪馬台国に関係に限らず、一応まともな研究者と見なされている人々でさえ、
そうものが横行しぎているのが、今の古代史といえばいえるが。

33 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 21:21:37.17

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

34 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 21:22:16.17

6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

35 :日本@名無史さん:2015/09/13(日) 21:44:24.83

>>31
確かに黒人無視してる書き方だよね
むしろその9人の母はみな黒人のはずなのにね

36 :743:2015/09/14(月) 00:41:34.87

何度か述べていますが、日本書紀が軽視されすぎだと思います。
日本書紀は天武天皇の時代から30余年の歳月をかけて考証された結果のモノです。
崇神天皇の時代は倭人伝の記事の直後と考えていますが、大規模な初期古墳はヤマト王権の中心に集中している。
古墳の大きさによると考えられる中央集権体制が整ったのでは?

古墳時代の多くの古墳造営は整備された権力機構の存在無しにはありえないと考えられます。
日本各地の大規模な古墳は地方の在地勢力の成長などでは無く大和政権のコントロールの元に行われたとしか考えられない。
古墳の規模は天皇>皇后>皇族>大豪族の序列で作られたとしか思えないのでは?

日向・吉備・広域丹波・毛野の大古墳すべて地方に下った皇族に淵源すると考えられます。
これは専制でない中央集権だったのでは?
各地の大古墳の終焉は専制者たる雄略天皇の登場と符号するのではと。

畿内から地方に至る神社や伝承の多くは日本書紀との符号している事を日本書紀以降に合わせたとはとても考えられない。
日本書紀が元の伝承を記述したと考えるほうが自然なのでは。

日本書紀で崇神天皇からの伝承が詳しくなるのは中央集権体制が整ったと考えた方が合理的では?
倭人伝にも倭国の乱以前の王統について記述してますし、年期はともかく加上がわずか9代で伝承もないのは、造作などでは無く伝承の喪失とした方が合理的だと思います。

戦後史学は皇国史観の反動から余りに日本書紀を蔑ろにしているのでは?
近年の考古学の発掘結果によって漸く日本書紀の再認識が進んだのではと思います。

37 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 02:45:57.50

うんうん、それで?

38 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 02:49:17.05

誰も全部嘘だなんて言ってないから

39 :日本@名無史さん:2015/09/14(月) 20:14:50.75

>>17
金氏も倭人系だよ。新羅の王は最後まで倭人系。

42 :743:2015/09/15(火) 22:39:33.13

邪馬台国九州説が現れた背景として、通常の郡・三韓との交流、交易は伊都国で行われた為ではないでしょうか。
倭人伝に現れるように皇帝の勅使は大和にまで向かったようですが、それ以外は北九州で決済していたようです。
詔書を伴う場合は金印が必要になってきますが、邪馬台国より派遣された使者にも魏の官職と銀印が下賜されており、通常決済と封泥は銀印が使用されたのでは。
また、難升米・牛利等の使者は北九州の人間だったのでは。指摘もされていますが、難升米は奴国との関係があるのかもしれません。
帯方郡より北九州までは里程表記で、北九州から邪馬台国までが日程表記なのは郡が北九州までは何度も往来し里程を認識していたのに対して、邪馬台国までは勅使の往来の時だけであり、その時の報告が基になったためではないでしょうか。

47 :日本@名無史さん:2015/09/17(木) 00:46:51.19

伊支馬:生駒 …北西
 活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)=イクメ、イコマ
 皇居は纒向珠城宮(桜井市穴師)だが、陵墓は菅原伏見東陵(奈良市)でかなり北方

彌馬升:加茂・葛城鴨…南西
 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)=ミマツ
 皇居と陵墓が葛城掖上(御所市)に 阿波国長国造の祖に「事代主神の子孫の観松彦」がいる

彌馬獲支:三輪・纏向…東
 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)=ミマキ
 皇居は磯城瑞籬宮(桜井市金屋)、陵墓は山邊道勾岡上陵

奴佳提 …三者に囲まれた中央(ナカト)
 孝霊天皇の皇居が黒田廬戸宮(田原本町黒田)

49 :日本@名無史さん:2015/09/21(月) 15:12:38.86

まだあった。
三種の神器のうちの草薙剣が熱田神宮にある。
また、伊勢神宮の外宮の神、豊受大御神の存在。

53 :日本@名無史さん:2015/09/25(金) 16:02:28.37

唐古鍵遺跡が途絶したのは弥生時代中期末で、洪水によるもの(登呂遺跡もこの頃に洪水で滅んだ)
すぐに復興して弥生後期にはむしろ最盛期を迎えている
縮小したのは古墳時代前期以後

58 :日本@名無史さん:2015/09/26(土) 12:03:57.87

「歳時」をそんな意味で用いている事例がない

63 :日本@名無史さん:2015/09/27(日) 01:03:22.58

神武天皇から開化天皇までは葛城王朝、
崇神天皇から仲哀天皇まで三輪王朝というように
古代の天皇は王朝交替したと見る説があるが、
神武から開化の間でさえ順調に一族間の王位継承が
行われていなかった、それはかなり後代まで
続いたと考えるのが妥当かもしれませんね。

92 :日本@名無史さん:2015/11/07(土) 20:59:48.56

人間離れさせたのは雄略期
時代繰上を頻繁に行った

125 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 00:52:00.76

『神武天皇』

1,古事記・日本書紀より、初代天皇&紀元前660年即位(笑)

2,古事記では、137歳まで生存(大笑い)

3,日本書紀では、127歳まで生存(オイオイオイ、はっはっはっ、笑)

「問題」なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか?

<解答と解説>

http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1441493480/120

———————————————————-
「素朴な意見」

⇒『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、

今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか

⇒なんの権限があって今の座に居座ってるの?
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1284055065/l50

194 :日本@名無史さん:2016/05/03(火) 08:57:13.75

>>188
丹波一族って、しょっちゅう出てくるよな。
そんで不思議なのは、出てくる重要人物が男じゃなくてみんな女だということ。
孝昭天皇の后の世襲足媛
開化の妻の竹野比売
垂仁の后の日葉酢媛
ヤマトタケルの宮簀媛
伊勢神宮の外宮の豊受大御神

256 :日本@名無史さん:2016/10/14(金) 14:22:14.57

日本書紀 巻第三冒頭「神日本磐余彦天皇 諱彦火火出見」
本名はヒコホホデミ。

300 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 12:18:09.88

>>298
それ、名前の付け方が諡号の基礎ルールのままだった時代の命名だからでしょ

業績によって先代を評価して命名するのが隋代まで当時の諡号。まあ漢字一文字だけだけど。

で、尊称として(?)上にもう一文字、「孝」をつける。
それだけじゃん

問題は。そのルールにおいて、あまり良くない評価で用いられる文字まで混じってることだよな。
業績の記録がないのに評価が悪いって、何か原因があったのかな?

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